2012年5月5日土曜日

次男は親の墓には入れずに、新しく墓を作らないといけないと聞きましたが、なぜで...

次男は親の墓には入れずに、新しく墓を作らないといけないと聞きましたが、なぜですか?

誰がいつ何のために、そのような決まりを作ったんですか?







本家を長男が取り、本家の墓も長男がお守りをし、次男は分家となり、その次男は自分の墓を作り、次男の家も後には本家となる。その繰り返しで続いてきました。

でも、現在は、少しづつですが変わってきています。



少子化、家族構成、お墓の考え方、お墓の価格など、お寺の墓地を除けば、公営・民間の霊園の場合、厳しい規制がなくなり、親族などで使用者が確りしていれば、お骨を納める事が出来ます。



私の持っている公営霊園の墓のカロートは、そんなには大きくはありませんが、骨壷が10個以上納められますし、古い順にカロートの土の部分に、お骨を出して土に帰しますから、結構親兄弟だけでも、納められますよ。



大概のお墓は、骨壷が増えたら、古い骨壷から土に帰しますから、余程でない限り、一杯にはなりません。(土に帰したお骨は、解けて無くなります)



ですから、私の持っているお墓は、兄弟で建てたお墓ですから、後々は親子、兄弟、子、甥、姪、孫・・と、続けば良いなと思っています。



なお、誰でも入れるように、墓石には苗字は入れていませし、余り墓石に使用しない、漢字1文字しか書いていません。



カロート(納骨室)

http://page.freett.com/RemainService/kisochisiki/kiso-karouto.htm



話が大幅にそれましたが、お墓自体は古くからあり、日本書記に「墓」と出てきますから、7世紀にはあったとされています。

庶民がお墓を建てるようになったのは、江戸時代になり、徳川四代将軍、家綱が「諸宗寺院法度」を制定(1665年)した時に、民衆はどこかのお寺の檀家にならなければならなかったと同時に、お墓を建てる様になりました。



ですから、「誰が」と言えば、徳川家綱。「いつ」と言えば寛文5年(1665年)。

「何のために」と言えば、キリシタン禁制の名のもとに、「宗門寺請制度」「寺院法度」などの決まりを作り、また、民衆はどこかの寺の檀家に組み入れられて、お墓を建てるようになり、本家、分家の習わしで、長男が本家の墓を守り、分家になるものは別に墓を建て、檀家制度を維持して行くことになった。

諸宗寺院法度

http://dic.livedoor.com/search?dic=dj&id=07735900&key=%BB%FB&kind=0... 

この回答で、如何なものですか?








その家、その家によっていがいます。一統の墓、寄せ墓、祀り方があります。次男は次男で墓を作るのが、一般です。しかし、次男で子供が居ない場合、女の子しかない場合墓を作らないほうがいいと思います。墓守する人がいません。その時は実家の墓か、お寺の無縁墓にはいります。、逆に長男が子供が居ない場合は次男が墓守をする場合があります。







決してその道の専門家ではないので私の意見として・・・。



次男だから…というしきたりではなく「家を出ているから」と見るのではないでしょうか?

今は長男ではなく次男が跡を継ぐのも珍しくないですが、昔は跡継ぎは長男とされていた時代。

家を出た次男は自分の家を構え、やがては老いて亡くなります。

本家と同じ姓を名乗る次男ですが、次男も子孫を残すにつれ、そこが本家となりますよね。

もし全てのお骨を本家で弔うなら、お墓がいくら大きくてもきっといつか足りなくなるのでは

ないでしょうか?

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